勝瑞時代に生きた人々

1 プロローグー勝瑞以前

(奈良・平安・鎌倉時代)

古代、現在の藍住町あたりは井隈郷(いのくまごう)と呼ばれていました。京都で藤原氏が政治を行った時代には、井隈荘という荘園でした。鎌倉に幕府が開かれ武士の時代になると、源頼朝に従って戦った近江の佐々木経高(つねたか)が守護として阿波国に入ってきました。この頃、井隈荘は摂津住吉大社領だったことが分かっています。承久の乱が起こると、後鳥羽上皇を中心とする朝廷に味方した佐々木氏は滅び、鎌倉幕府方について戦った信濃の小笠原長房(ながふさ)が阿波国の守護となりました。井隈は小笠原氏が拠点を置いた所と伝わっています。
 

2 起―阿波細川氏の勝瑞

(室町時代)

それから約100年後、鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏(たかうじ)が室町幕府を開くと、足利尊氏・義詮・義満の3代の将軍に仕えた足利家重臣の細川頼之(よりゆき)が管領となり四国をおさめました。阿波国をまかされたのは細川頼之の弟細川詮春(あきはる)でした。このころ、細川氏は室町幕府の実権を巡って同族で争います。2代将軍足利義詮に逆らった讃岐の細川清氏との戦に勝ったことを祝って、守護所付近を勝瑞と名付けたと伝わっています。

以来、阿波細川氏が守護として代々阿波国をおさめますが、阿波は京に近く、幕府で将軍を補佐する相伴衆(しょうばんしゅう)という重要な役を務めたため、京の戦や争いごとにもまき込まれました。1467年京で起こった応仁の乱では、阿波国守護の細川成之(しげゆき)や家来の三好之長(ゆきなが)が管領細川勝元の率いる東軍中心勢力として合戦で活躍しました。応仁の乱後の京都の荒廃を嘆いて詠まれた有名な和歌「汝(なれ)や知る都は野辺の夕ひばり上がるを見ても 落つる涙は」は、細川成之の家来飯尾 常房(いのおつねふさ)の作です。

3 承―三好氏の活躍した勝瑞

(戦国時代)

京の都では戦が長く続き、室町幕府の将軍や管領の力は弱くなっていきました。足利や細川などの名門武士にかわって力を持つようになったのは、戦の中心であった足軽を率いて実戦を戦いぬいた三好氏でした。鎌倉時代の阿波国守護小笠原氏を先祖とする三好氏は、三好之長(ゆきなが)・長秀(ながひで)・元長(もとなが)・長慶(ながよし)と続きます。三好氏は、戦で敗れて一時的に力を失うこともありましたが、再起して勝利を重ね、最終的には阿波や京を実力でおさえるようになっていきました。

三好長慶が従四位の下・筑前守・修理太夫という桐紋を許される高い位についた時代には、四人の弟と力を合わせ、三好家の全盛期を迎えます。讃岐は十河一存(そごうかずまさ)、淡路は安宅冬康(あたぎふゆやす)と野口冬長(のぐちふゆなが)、阿波は三好実休(じっきゅう)、摂津と河内と和泉(今の大阪府と兵庫県南部)は長慶がおさめます。五兄弟と家臣団で阿波・讃岐・淡路・摂津・河内・和泉・播磨・丹波・大和・山城の十か国にわたる広い領地を支配しました。三好氏の勢力が管領細川氏や将軍足利氏を上回ろうとする中で、阿波国では家来筋の三好実休が主君である守護の細川持隆(もちたか)【氏之】をたおしてしまうということも起こりました。このような下剋上の世となり、都を中心とする天下のことは三好家の人々が命令を発するようになりました。 京の都や堺の文化である茶や連歌、風流踊りなども、この頃栄えていた城下町勝瑞に伝えられたと考えられます。

4 転―主なき勝瑞

(安土桃山時代)

しかし、三好家も長慶やその子・兄弟がなくなると、家来の松永久秀(まつながひさひで)や三好三人衆などの家臣に力をうばわれてしまいます。三好家が分裂していく中で、新たな天下人織田信長が現れます。織田家も三好家と同じように守護代の家でしたが、戦で勝ち続けるうちに尾張・美濃(おわり・みの:今の岐阜県・愛知県)を手に入れ、足利義昭(よしあき)を幕府の将軍とすることで天下人へとのし上がっていきました。

織田家に敗れて、三好氏の一族は阿波国にもどりますが、今度は土佐国の長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が阿波国をねらって戦いをしかけてきました。そのような中、三好実休の子どもの三好長治(ながはる)は、前の主君細川持隆の子細川真之(さねゆき)との戦いに敗れ、松茂町長原でなくなってしまいました。主がいなくなってしまった勝瑞城は十河存保(そごうまさやす:三好実休の子で十河家を継いでいた。三好長治の実弟。)が受け継ぎました。

新しく勝瑞城主となった十河存保は、勝瑞城下で風流踊りの催し物を開いたとの記録が残っています。和泉(大阪)にいた三好一族の三好笑岩(しょうがん)(康長:長慶の叔父)は、織田家の家来となり、その力をかりて阿波国を長曾我部氏から守ろうとしますが、本能寺の変で信長がたおされたため、失敗してしまいます。この頃、勝瑞城は戦いに備えて、濠を深くしたり、土塁を高くしたりしたと考えられます。天正10年(1582年)中富川の戦いで十河存保ら5,000の阿波武士は、25,000ともいわれる土佐長曾我部軍に大敗し、阿波国の主な武将はことごとく討ち死にし、勝瑞城は落とされてしまいました。十河存保が讃岐の虎丸城に退いた後、阿波国は、鳴門の一部(阿波水軍の森家が守る土佐泊)を残して長曾我部氏のものとなりました。

5 結ー勝瑞から徳島城下町へ

(安土桃山時代から江戸時代)

羽柴秀吉が天下人となると、弟秀長、甥秀次(笑岩の養子となり三好信吉と名乗る。後に関白となる。)、黒田、宇喜多、蜂須賀などが長曾我部氏との戦いのため四国入りしました。この結果、長曾我部氏は土佐に押し戻され、阿波国は蜂須賀氏に与えられました。阿波国の大名となった蜂須賀氏は徳島に城下町をつくるために、勝瑞にあった建物を全て徳島に持ち運び、城や寺町をつくったと伝わっています。十河存保は豊臣秀吉の家臣となりますが、九州の島津征伐において討ち死にし、阿波三好家は絶えました。今の藍住町は、長曾我部氏との戦いで功をあげた細川氏・三好氏の盟友播磨(はりま:今の兵庫県南部)の赤松則房(あかまつのりふさ)のものとなり住吉藩一万石となります。赤松氏が途絶えたのち、住吉は蜂須賀至鎮の妻、敬台院(けいだいいん:徳川秀忠の娘)の領地となりますが、その後は徳島藩の一領地となりました。

勝瑞に生きた阿波国守護細川家の人々

◇細川和氏(かずうじ)
1296-1342 47
三河国細川郷出身。足利尊氏に仕える。阿波守。阿波秋月に隠居。(阿波氏土成町輪蔵庵)

◇細川頼春(よりはる)
1304-1352 49
和氏の弟。阿波国守護。従四位下・讃岐守・刑部大輔。2代将軍足利義詮を守って、南朝残党と戦い、京都四条で討死。 (鳴門市萩原光勝院)

◇細川頼之(よりゆき)
1329-1392 64
頼春の長男。従四位下相模守。右京大夫。京兆家(けいちょうけ)初代。3代将軍義満の管領。

1. 細川詮春(あきはる)
1330-1367 37
初代当主。頼春の子。頼之の弟。2代将軍足利義詮から一字を与えられて、詮春と名乗る。

2. 細川義之(よしゆき)
1363-1422 60
2代当主。詮春の子。

3. 細川満久(みつひさ)
1386-1430 45
3代当主。詮春の弟の備中守護家細川満之の子。詮春の甥。足利義満から一字を与えられて満久と名乗る。

4. 細川持常(もちつね)
1409-1450 41
4代当主。満久の子。室町幕府相伴衆。4代将軍足利義持から一字を与えられて持常と名乗る。(小松島市桂林寺)

5. 細川成之(しげゆき)
1434-1511 78
5代当主。持常の弟細川教祐の子。相伴衆。8代将軍足利義成(義政)から一字を与えられて成之と名乗る。応仁の乱では細川勝元率いる東軍に属し、西軍と戦った。三好之長の主君。(徳島市丈六寺)

6. 細川政之(まさゆき)
1455-1488 34
6代当主。成之の子。8代将軍足利義政から一字を与えられて政之と名乗る。。

7. 細川義春(よしはる)
1466-1495 27
7代当主。成之の子。政之の弟。10代将軍足利義材から一字を与えられて義春と名乗る。

◇細川澄元(すみもと)
1489-1520 32
義春の子。室町幕府30代管領。細川京兆家14代当主。祖父・成之に養育された。11代将軍足利義澄から一字を与えられて澄元と名乗る。

◇細川澄賢(すみかた)
?-1521 30?
義春の娘婿。澄元と義兄弟。細川典厩家(右馬頭家)当主。南陽神社に伝承。

8. 細川之持(ゆきもち)
1486-1512 26
8代当主。細川義春の子。澄元の弟。

9. 細川持隆(もちたか)氏之(うじゆき)
1516-1553 37
9代当主。三好実休の主君。細川晴元が三好元長を攻めようとした時にこれに反対して阿波に帰国。足利将軍家の義維を阿波に迎え入れた。晴元が三好長慶に敗れて没落した後、見性寺で実休に滅ぼされる。(徳島市丈六寺)

10. 細川真之(さねゆき)
1538-1582 45
10代当主。掃部頭。母は小少将で三好長治、十河存保は弟にあたる。 勝瑞城を脱出して小笠原成助、長曾我部氏と手を結び、長治を討った。十河存保に攻められ滅ぶ。(徳島市丈六寺)左から細川持隆(氏之)・細川成之・細川真之の墓と伝えられている。(徳島市丈六寺)

勝瑞に生きた人々 阿波国三好氏

◇三好義長(よしなが)
?-1386
小笠原氏であったが、三好郡に住み三好氏と称する。

◇三好 長之(ながゆき)
?-?
義長の子。細川成之の家臣として応仁の乱に参戦。

1.三好 之長(ゆきなが)
1458-1520 63
長之の子。筑前守。 喜雲と号す。細川成之・政之・政元・澄元に仕える。応仁の乱など戦で活躍。 山城国の土一揆にも関与したと疑われる。細川管領家内の争いの中、京都百万遍の知恩寺で細川高国に討たれる。

2.三好 長秀(ながひで)
1479-1509 31
之長の子とされる。三好元長と三好康長(笑岩)の父とされている。

3.三好 元長(もとなが)
1501-1530 30
長秀または之長の子。山城国下五郡守護代筑前守海雲と号す。管領細川晴元に仕え、その一字を与えられて元長と名乗る。一向一揆に攻められ、和泉の顕本寺(法華宗)にて討たれる。

◇三好 長慶(ながよし)
1522-1564 43
元長の子。将軍足利義輝の相伴衆。細川氏綱を管領につける。聚光院。従四位下修理大夫となり、実質近畿四国十か国を支配する。

◇三好 義興(よしおき)
1542-1563 22
従四位下筑前守長慶の子。相伴衆。足利将軍家から義の一字を与えられる。

◇三好 義継(よしつぐ)
1549-1573 24
十河一存の子。三好本家を継ぎ、織田信長の家臣となるが滅ぼされる。